Sycamore Congregational Church - nichigobuー seisho
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聖書の言葉
森田喜基 日語部牧師
2005年12月月報より
「渇いている人はだれでも私のところへ来なさい。」
ヨハネによる福音書7章37節
主のご降誕をお祝いするこの時期、「へいしのなみだ」(さとうひでかず著、こぐま社)という絵本が大好きで毎年本棚から引っ張り出すものです。ラーゲルレーブ著「キリスト教伝説集」が原作のもので、ご存知の方も多いと思います。ベツレヘムのヘロデ大王配下の一人の兵士はいつも城門の番をしていました。あるとても暑い日、兵士の喉が焼け付くように渇いていた時、いつも兵士の周りで駆け回っていた男の子が、その小さな手に野原から水を汲んできてくれました。水はほんの少しだったのに、冷たくて美味しくて、体中に力がわいてきました。その頃新しい王様がベツレヘムに生まれたという噂が広まりヘロデ大王はその噂を恐れ、町中の子どもを殺そうとしました。いつも門番の兵士は一人の子どもを取り逃がし、そしてついにその男の子がその両親の間に眠っているのを見つけます。兵士は剣を振り上げて、捕まえようとした時、その男の子が自分に水を飲ませてくれた子だと気がつきます。兵士の耳にはヘロデ王の「殺せ!」という声が。気がつくと男の子は兵士を見つめていました。兵士は体中の力が抜けて、剣を降ろし、思わず跪き、そして涙があふれ、暖かい気持ちになったというものです。絵もとても美しい実に見事な絵本です。さてヨハネ福音書では度々「水」が比喩的に用いられ、主が豊かな「水」を私たちに与えてくださることを語ります。それは未来形の招きでもあり、実はすでに私たちが経験したこと、していることでもあるのです。「倒れそうになっていた私を、それでも主が水を与え支えて生かしてくださった。」そういった回顧、実感が礎となっておられる方もおられるでしょう。それは正暑い日の門番という仕事中に渇き倒れそうになった際、あの男の子が兵士にその小さな手で水を飲ませてくれた。そしてその男の子に再び会って、涙した兵士のように。今年もその男の子にまた出会う時です。

2005年11月月報より
「共に涙ながされるイエス」
旧約聖書ヨブ記4章以下では、財産を失い、家族を失った失意のヨブに対して、3人の友人が代わる代わる「バチがあたった!」と言わんばかりに、また「神の代弁者」のごとく責めるのです。「考えてみなさい。罪のない人が滅ぼされ、正しい人が絶たれたことがあるかどうか。」(4章7節)「バチがあたる!」=「因果応報」、それは悲しみ、苦しみにある人が、今の自分の現状の「意味」をそう理解することはあるでしょう。しかしそのような苦しみの中にある人に対して、「バチがあたったのだよ。」なんて言葉による「意味づけ」はどれほど人の心を壊すものでしょうか。ハリケーン・カトリーナの直後ある牧師がメディアで「ニューオリンズはこれまで『Decadence』(宗教的荒廃)で、この水害はこうした荒廃を一掃する『God's mercy』(神の慈悲)である。」と語っていました。アメリカの保守的キリスト教の昨今の論説は正にヨブを責める友のごとく、人々の心を痛めています。全知全能の神が支配されるこの地上で、こんな悲惨なことが起こるのは、起こったことを受け入れるのには、理由、意味づけをしなくては、彼らの信仰は成り立たないのです。ですから、こんなことが起こる前は、早くキリスト教の洗礼を受けて、救われなくては、ノアの箱舟のような終末が訪れたときに、滅ぼされる、だから早く洗礼を受けて救われなさい、と言ってきたのです。ですからアフガニスタンやイラク戦争で、多くのイスラームの人を殺してしまっても、それは正義の戦争になってしまうのです。でも今度の被害はアメリカ国内で起こりました。多くのクリスチャンが家族を失い、家を追われ、今も避難生活をしている。これまで言ってきたクリスチャンとクリスチャン以外という枠組みでは語れなくなった。そこで、同じクリスチャンの中でも救われる正しい信仰と、救われない誤った信仰という枠で語りだしたのです。イエス様が教えてくださいました神様の愛は、この人を救って、この人を救わないといった、言うなれば、安っぽいものではありませんでした。ヨハネ福音書の中で、疲れたもの、重荷を負うものは、誰でも私のもとに来なさい。休ませてあげよう。と語られたように、信じる信じないではなく、神の愛の眼差しは誰にでも注がれているとイエス様は教えてくださいました。では洗礼を受けてクリスチャンになることに何の違いがあるのか、という疑問ももたれるかも知れません。「イエスにならいて」という本があるように、イエス様を信じて、イエス様の教えてくださった神様の愛にかけて生きていく、その宣言であるのです。しかしヨブ記が語りますように、なぜこんなことが私の身に起こるのかという悲惨な出来事は、どのような信仰に生きているに関わらず、現実の問題として起こってくるのです。そういった現実の人の生の痛みに対して、イエス様はどう関わられ、何を語られたでしょうか。ヨハネ福音書11 章では、ラザロという兄弟を亡くした、悲しみの中にある人々と共に、イエスも涙を流されたというのです。イエス様は完全無欠の神ではありません。人として生まれ、人としての苦悩をも歩まれた方です。そしてこの人たちの悲しみに、共感し、共に涙流された方なのです。ヨハネ福音書の記者はそのイエスに繋がる時に私たちも新しい命を与えられていくことを語ります。そのイエスの涙に希望を託して。


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