今年のシカモアバイブルディキャンプのテーマは「Ohana(ハワイの言葉で家族)」でした。月曜日から金曜日まで毎日「家族、それはLOVE」、「・・・それはPEACE」,「ありがとう。」と小テーマがつけられ、それに関係する聖書の箇所を元に、劇をしたり、工作をしたりと楽しい学びのときを、たくさんの子どもたちと過ごすことが出来ました。本当に祝福されたときでした。
ご参加くださった皆さん、お手伝いくださった皆さん、本当にありがとうございました。来年も一緒に参加できますことを楽しみにしています。
さて、キャンプ中のある日、一人の男の子が私にこう質問してきました。
「何でみんな家族なの・・・?」
テーマの「家族」はキャンプに参加しているお友達みんなが家族という意味を持って語られました。しかしよくよく考えてみれば、そこで語られる「家族」とはとても抽象的な概念と言えます。「なぜ友達じゃなくて、家族なの?」と聞かれて、どう応えることができるでしょうか。「私たちはキリストの家族なのです。」と子どもたちに語りかけても、それはやはり抽象的なことには変わりありません。自分の家族と同じように、「みんな家族です。」という言葉にリアリティーを持つことは、言葉だけでは難しいでしょう。
イエス様は「あなたがたも聞いているとおり、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし私は言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」(マタイ福音書5章)とおっしゃります。
「隣人を愛しなさい」という言葉は旧約聖書のレビ記に書かれており、当時のユダヤ人にとっては当たり前の道徳観念でした。私たちの日常でもよく聞かれる大切な言葉です。しかしイエス様は、さらに「敵を愛しなさい」と言うのです。ルカによる福音書では「敵を愛し、あなた方を憎むものに親切にしなさい。悪口を言うものに祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」とも書かれています。「そんなこと出来ないよ!!」と自分の中から聞こえてきそうな難しいことです。この言葉の意味を探っていくと、ここで言われる「隣人」とは当時のユダヤ社会において同じ信仰を持つ「同胞」でした。そして「敵」とは彼らが異端とみなしたユダヤ教の分派や外国人を指すものでした。多くんユダヤ人は外国人を「律法を守っていない者」として差別し手、敵対視していました。「社会」の最小単位である「家族」を大切にし、互いに愛し合うことは大切なことです。しかしイエス様は時として、その「家族」が人々の「愛の輪」にとどまらずに「自分の仲間」と「その他」を分け隔てる垣根となることをご存知でした。当時ユダヤ社会で同胞に対する愛を徹底すればするほど、敵に対する憎しみが強化されていたのでした。今でも世界中で宗教や思想の違いによって、人々が傷つけあっている現状があります。戦争で悲しいことが起きることも、私たちの身近な人間関係において隔てが出来るのも、「仲間」と「仲間でない」人を区別することによって生じるという構造において、違いは実はありません。そうでなく、孤立して垣根を作るのではなく、大切なものを愛するように、その愛を他者とも分かち合うことをイエス様は語られるのです。主の福音によって、私たちの心にある垣根が打ち砕かれ、いろいろな枠組みを超えて「平和を作り出すもの」となることを主は私たちに望んでおられるのです。
2007年9月報より
「祝福」
学生時代に実習で滋賀県にあるキリスト教主義高校で学んでいたことがあります。ある礼拝の最中、何人かの生徒が礼拝中に笑うんです。何と礼拝の最後「祝祷」でクスクスと笑い声が聞こえるのです。教会では礼拝の最後に牧師が祝福を願います。それが「祝祷」です。彼らがなぜ笑ったのか、何が面白か ったのかを聞いてみますと、「あのおっさん、両手上げてたで」と言うんです。「なんか犯人が捕まったときみたいやな」とも言うんです。祝祷の手を上げるポーズが不思議におかしく見えたのでしょう。いつも教会で見ていると当たり前のこのポーズも、新鮮な目で見れば、確かに不思議かもしれません。いや慣れていると気づかなくなっていることでも、新しくこられた方には、教会は不思議がいっぱいかもしれません。この観点はいつも大切 に持っていたいと思わされましたが、彼らが祝祷のことを「犯人が捕まったときみたい」と受け止めたことは、実はある面で祝祷のひとつの理解、委ねるということと通じるのではないでしょうか。
私の祝祷のスタイルは皆さんに向けて手が向いているような、でもうえから何かを拾おうとするような角度です。この型はイエスの母マリヤがイエス様をおなかに宿したときに神には祈ったときのスタイルといわれます。両手を上に広げた形をとっているのが特徴です。これは旧約時代からすでに行われていた祈りの姿勢です。両手をあげた形は、空っぽの杯を象徴します。空っぽの土の器を祝福して満たしてくださいと希求しているの です。
ところでここで祈られる「祝福」とはいったいどのようなものでしょうか。聖書には祝福を受け、財産を手に入れた人々の物語もなくはありません。しかし祝福を受けた人の多くが、この世の価値観からすれば、必ずしも成功を手にしているのではないのです。創世記でヤコブは祝福を求めて、ヤボクで神と格闘をします が、結果足の関節がはずれ、使徒パウロは体のとがを取り除いてほしいと懸命に祈りましたが、結果恵みは十分であり、弱いところに現れるのだという答えを聞きます。つまり、神から受ける祝福とは、神がその人に臨み、働いてくださるということなのです。私たちの考える成功とはかけ離れたところにある真理や喜びに私たちの 心の目を開かせてくれるものです。パウロのように弱い部分にこそ神の力は働くものであり、高慢な思いが打ち砕かれることも祝福の形の一つである、と聖書は語ります。
日々の糧を得るために、私たちは懸命に働きます。また明日への希望をつかむために何かを努力していきます。しかし思うようにいかないことなど、毎日おこります。そんなときにこそ、臨んでくださる主の祝福を「手をあげて」ゆだね、切に祈っていきたいと思わされます。
2007年10月報より
夏期神学生を終えて
吉岡恵生 (夏期伝道神学生、同志社大学神学部4年生)
この度8月10日から9月17日までの約5週間、シカモア教会夏期神学生として良き学びの時が与えられましたことを心より感謝いたします。時が経つのは早いもので、シカモア教会での日々もあっという間に過ぎ去ってしまいました。緊張しながら私がこちらに来た時のことを、昨日のことのように思い出します。また同時にこうした短い期間においても、本当に多くの新しい経験をさせていただき、実りある充実した日々を過ごさせていただいたということを今思い、関わってくださった全ての方々に言い尽くせぬ感謝の気持ちで溢れています。また、将来牧会者となることを目指している私を、こうして夏期神学生として受け入れて下さり、言葉では表現できない程のとても多くの刺激を得ることができました。特にシカモアサッカーキャンプやシカモア教会を始めとする多くの教会での礼拝、教会行事などに参加し、新たな人々と出会うことができたということは、私にとって大きな喜びであり貴重な時となりました。
夏期神学生というのは、学生特有のその長い夏休みを活かし、神学生が初めて教会と真に向き合うことのできる期間であると思います。そうした貴重な時に、私は大きな期待と新たなことにチャレンジする気持ちを持って向き合い、私自身の日常の生活では経験することができない何か、知ることができない何か、得ることができない何かを見つけたいと願っていました。そのような日々を過ごしていく中で、次第に私が抱いていたこの期待やチャレンジ精神といったものが具体化し、私自身の中にそれを実感することができた瞬間があったことを今でも覚えています。一ヶ月間にこれだけ多くの奨励をする機会が与えられたこと。そしてその内容について自ら反省し、また共に礼拝を捧げた方々にアドバイスを頂けたこと。これまで漠然と牧師になることを目指してきた自分自身に、牧師とは何かということを考えさせられる時があったこと。更には、今は答えが分からなくとも何か自分の中で湧き出た自分自身への問いの数々が生まれたことなど、本当に刺激的な瞬間が多くありました。そして今、これほど貴重な経験な中には、私の将来に大きな意味を持つもの、またこれからの道において土台となっていく要素が多くあるだろうということも、私は確信できるようになっていますし、確信できるだけの刺激を得ることができたと信じています。同時にこの一ヶ月間が、私が得たこれらのことだけに限らず、お世話になった諸教会の方々の内にも何かお力になれていればと思います。
このような素晴らしい学びをすることができたこと、またこのような時が与えられましたことを、出会うことができたお一人お一人にもう一度心から感謝したいと思います。本当にありがとうございました。
2007年12月報より
クリスマス・闇の中の光の誕生
11月25日の日語部礼拝は「信徒奨励」礼拝でした。4人の方が礼拝の中で、これまでの人生の中で、どのようにしてキリスト教に出会ったのか、また今聖書からどのような導きを得ているのかをお話くださいました。いずれの方のお話に共通して語られていたことは、イエス様との出会いでした。多くの方がもしかしたらそうであるように、人によってはキリスト教を毛嫌いしたり、避けてこられたそうです。しかし人生には必ずといっていいほど、壁にぶち当たったり、苦難の中におかれることがあります。そんな中でイエス様が様々な形で出会ってくださったことを知らされ、4人の方を通して語られたキリストの福音(よき知らせ)に心打たれた礼拝でした。
そう、私たちはどんなに闇を避けようとしても、苦難から逃げようとしても、それは突如として襲ってくることがあります。人生の荒波におぼれそうになることがあります。イエス様のお生まれになった時代も、多くの人がそんな思いの中にありました。ローマ帝国にユダヤが支配される中、民衆は戦火におびえ、飢え渇き、尊厳を踏みにじられていました。そんな中、イエス様は誰も見向きをしないような貧しい馬小屋でお生まれになりました。正に人々の貧しさの只中にお生まれになったのです。そしてその馬小屋に星によって招かれたのは、羊飼いたちと3人の博士でした。羊飼いは毎日羊の番をしなければなりません。羊から目を離すことも出来ないので、決められた時間に神殿に行って礼拝することもできませんでしたし、羊は勝手に他人の土地に入っていくので、それを捕まえに行っては、「不法侵入」を繰り返さなければなりませんでした。ですから町の人々からは「汚い罪びと」と思われていたのです。そして博士たちは、学識のある人たちでしたが、彼らは外国人で、「占星術」という異文化に生きている人でした。彼らもまた不当に差別を受けていたのです。そういう人間の悲しみ、孤独の只中に、自らも馬小屋でイエス様はお生まれになられ、彼らの友となり、闇の中にある人々を明るく照らし闇からの解放をもたらしてくださったのです。
私たちを覆う闇の中で、イエスは光としてお生まれになり、私たちを照らしてくださっています。悲しむものを慰め、希望を与え、新しい歩みを起こしてくださいます。クリスマスはその光が私たち一人一人の与えられたその良き知らせを、今年もまた分かち合い、喜びのうちに新しい一年が始まるときです。皆さんのうえに、闇の中の光イエス様の誕生の喜びが豊にありますようお祈りいたしております。