私を『主よ、主よ』と呼びながら、なぜ私の言うことを行わないのか。私のもとに来て、私の言葉を聞き、それを行う人が皆、どんな人に似ているかを示そう。それは、地面を深く掘り下げ、岩の上に土台を置いて家を建てた人に似ている。洪水になって川の水がその家に押し寄せたが、しっかり建ててあったので、揺り動かすことができなかった。ルカ福音書 6章 46-48節
岩を削り、その上に家を建てる。現代のように重機もない時代の話ですから、それは気の遠くなるような地道な作業であったことでしょう。しかしそこまでして、何かをやり遂げてこそ、それは身になるものだと、ついつい一夜漬けをしてしまいそうになる私などは、この聖書の言葉を読むたびに思わされるものです。
ルカによる福音書6章はその1節から、イエス様が行われたことが色々と書かれています。まず安息日に麦を積み、6節からは手のなえた人を癒されました。「安息日規定」といって、神が天地創造の7日目に休まれたことにちなんで、重労働をしていた人々や、農作のために働いていた動物たちにも休息を与えるために設けられた掟を、旧約聖書のモーセの時代からイスラエル人は大切に守ってきました。しかしその掟の文言だけがいつしか一人歩きして、週一回ちゃんと仕事を休めない人(羊の世話を片時も離れずしていた羊飼いなど)は掟を守れない罪人だというレッテルを張られていました。それに対して、イエス様は「人のために安息日がある」とおっしゃり、掟を元の意味に戻されました。さらにそんなレッテルを貼られ、社会の端っこに追いやられていた人々をユダヤ教の宗教儀式の中心である会堂の真ん中に立たせ、その人たちの人間性を回復されました。そして手の萎えた人(ルカ6;6-)に代表されるような、何かに怯え、心がなえている人に「手を伸ばしなさい」すなわち信頼して歩みなさい、とイエス様は招かれました。
このイエス様に招かれ、またイエス様がなさったことを行う人の群れが「教会」であります。教会は何かの権威を土台にしているのではありません。イエス様が語られたことを信じ、生かされ、そして行っていくことが教会の土台、岩の上に教会を建てるということであると言えましょう。
5月最終日曜日シカモア組合教会の創立記念礼拝です。大久保真次郎シカモア組合教会初代牧師は、シカモア教会を自立教会としてから、西海岸における日本人伝道に召されてシカモアを辞任してからの1911年から天に召されるまでの1914年まで間、北はシアトル、南はサンディアゴまでヘ休みなく走り回り、反日感情の中で、大変な状況におかれていた当時の日本人教会の互いの助け合いのために働かれました。それはまさにイエス様の軌跡を追い、差別の中でなえた人々の心を支え、共に歩む働きであったといえましょう。 時代は変わり、社会も変わり、教会のおかれた、教会に集う人の置かれた状況は変わってきました。しかしここに悲しむ人が、支えを必要とする人がいる以上、そのイエス様が私たちに慰めの愛の手を差し伸べてくださるように、その手をさらに地域にあるその手を必要とする人々に「フォワード」することを主は求めておられます。またこのグローバル化にあって、私たちは世界の悲しみにも連帯することが求められています。私たちのできることは限られています。しかし何がなせるかを祈り求めたいと思います。そしてその愛の手を伸ばすことは、実は私たちの身近な関係の中にも求めがあるでしょう。教会に集うものもいろんなものを抱えているからこそ、教会に集められています。イエス様を信頼する「縦の関係」に、互いに支えあう、祈りあう「横の関係」を私たち一人一人の、また教会の土台として、新しい1年目を歩んでいきたいと願います。